価値のモノサシって??
アメニティのサイトウです。
さて、モノサシというもの、ご存知でしょうか
長さを図るモノサシと、価値観などをいみするモノサシがあります
今回は価値観のモノサシについて伝えられたらと思っています
最近”「頭のごみ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める(苫米地英人)”という本を読みました。
そこでこんな事が書かれていました
「会社で出世しているほうが偉い、起業して成功している人はえらい、医者はえらい、弁護士はえらい、恋人がいるほうが幸せ、、、
そんな世間にあふれている「常識のモノサシ」こそゴミです
そんなゴミで頭をモヤモヤさせる必要はありません。出世するのかしないのか、結婚するのかしないのか。そんなことは自分の価値判断で決めればよい。
…他人の目に映っている自分というのは、自分が作り出している虚像です。「他人の目から見た自分」そのままを、自分で見ることは出来ないのですから、当然、それは自分が勝手に作っている虚像なのです。
自分が作り出した虚像なのですから、作らなければ周囲の目は気にならなくなります。
※文章抜粋
僕はこの文章にガツンと衝撃を食らいました
特に、他人の目に映っている自分、というもの。これは特に人目を気にする傾向がある日本人にいえることと感じました。最も、それは僕の主観なので、あくまで一意見と考えて頂ければと思います。
他人によく見られたい、ではどうやったら他人によくみられるのか、それを決定づけるものはなにか。。言葉にならない例えば「魅力」「カリスマ」なんてものはなぜ感じるのか。
僕の考えを少し話します
ここに、一人の起業家がいたとします。とても仕事ができてまじめで、社会に大いに貢献しています。税のことにもまじめに対応し、従業員のことも深く考えて努力しています。
さて、この文章だけで一体どんな人物が想像できましたか?
髪は短く、電話がしょっちゅうなり続き、目まぐるしい速さで動いている人?
それとも少し太っていて、どこか温かみのある人?
逆にこの文章とは裏腹に実はみえないところで。。のような人?
この「言葉」から受けて感じたものと、例えば直接その人物を見て感じたこと。
いったい何が違うと思いますか?
「言葉」から感じたインスピレーションと、その人を見たときに感じたインスピレーション。
どちらも自分が勝手に頭の中で、その人の印象を作っているはずです。
作っていませんか?
次に、「丸いリンゴ」と文字で見たときと、「丸いリンゴ」を実際に見たとき。
どちらも価値の基準が、自分の中にできているはずです。
言葉で「丸いリンゴ」と見たとき、実際に「丸いリンゴ」を見たとき、もっと丸いと思った。予想以上に丸かったなど
いろんなことを感じると思います。ほかにもいろいろ。
その、「感じる」ということは、
既に頭の中にイメージがあったという事です。
つまりこうだと伝えたいのです
”他人はみんな勝手にイメージを作る”
だから人は裏切られた(自分に不都合なことが起きた)とき
こんな人だと思わなかった
と、感じます
真面目そうな人が不良なことをすれば
そんなことするタイプだったの!?
なんてことになります
他人から見た自分を想像する、という行為が無駄なのは、人は勝手に
イメージするため、自分で自分を想像しても他人からはそうは見えないから、ということです。
最初に抜粋した、起業家はえらい、医者はえらい、弁護士はえらい、恋人がいたほうが幸せといった常識のごみ。
誰かがそれは正しいと言ったって、あなた自身が正しいと思わなければ
意味がないのです。
何故なら、それはただの、他人のモノサシの刷り込みにすぎないからです。
あなたのモノサシを、大事にしなければ意味がないのです
そのモノサシを、否定する必要はないのです。
自分が進みたいと思う道を進み、そのモノサシで胸を張ることが大切です。
マイノリティを恐れる必要はない、むしろ恐れるべきは権力と多数の弾圧
によって個人の道徳と自由がつぶされる事だと僕は思います。